過去のトピックス 2015

過去のトピックス 2015年

  • 2015年このWikiを作り始めたのは、この年の6月からだった。トピックスが増えてきて縦長になりすぎたので、一部ここへ退避させた

  • 3.2長尾孫五郎背く・・・ 1527年(大永7年)11月27日箕輪の長野左衞門太夫方業、総社長尾顕景(孫五郎(通称)尾張守(受領名))と白井長尾景誠(孫四郎(通称)))の排除を徳雲軒と謀る。・・・物語の中で、業正と賢忠兄弟はそれぞれ箕輪衆・厩橋衆(富士見・上泉・大胡含む)を率いて活躍することになる。これを機会に総社・白井両長尾氏は長野氏の支配下に置かれるようになり、やがて衰退してゆくのであった。 続きを観る     20151231棟治

  • 物語の「サビ」・・・講談社「暮らしのことば 新・語源事典」によれば、「聞かせどころ、見どころ」などを意味する語「さわり」の別な言い回しであると定義した上で、香辛料のワサビが語源であるとしており、「ワサビは『サビ抜き』という表現などに見られるように縮めて『サビ』とも言う。サビは少量でも刺激的な味がすることから、曲の中で最もインパクトがある部分を『サビ』と言うようになったのだろう」と述べている。そこで映画を沢山観て、自分なりの感想を書きその主題とサビを探ってみることにより、夢ものがたりに役立てようとした。こうやってどんどん風呂敷が広がってゆくのであった。なにもかも中途半端にして。ま、いいか。先は長いことだし  続きを見る  20151220 棟治

  • 2.3第一次国府台合戦・・・義明は真里谷氏に加え、里見氏等に擁立されて小弓公方と称され、古河公方や千葉氏と対立して、鎌倉占領を目指した。古河公方足利晴氏(義明の甥)も義明や山内上杉家との対抗上、氏綱と同盟を結んだ。更に1538年2月に武蔵・下総の国境にあった葛西城が北条氏の支配下に入っており、義明としても北条氏の脅威を感じるに至った。1538年10月(天文7年)ここにおいて、義明は氏綱との戦いを決意する。1538年10月、義明は里見義堯・真里谷信応ら軍1万を従えて、国府台城に入った。北条氏の手を借りて、その当主の座を得た義堯は、一転して小弓公方方に寝返り再度北条氏を敵に回した。何がそうさせたのだろうか?やはり初めから手を借りた後時機を見て、寝返る策略だったように思えて成らない 20151213 棟治

  • 2.2稲村の変・・・においての実堯の決断とは?1533年(天文2年)北条氏綱は上総へ侵攻の最大の障害である義豊を牽制・排除をすることを画策した。この年、里見義堯(よしたか)の次男・文悟丸(里見義樹(よしつき?)が誕生した。・・・この辺りの出来事は上野における享禄の内乱と同様に2大派閥の争いであり、なぜか気になって仕方が無いのである。終結の仕方は、安房では敗者滅亡、上野では敗者許されて丸く収まっているどころか、ますます力を増しているのだが、それが不思議でならない。
  続きを見る      棟治20151207

  • 黒澤時代劇・・・まず思ったことは、これが50年前の映画なのかってことだった。戦国時代の武士が、どのようにして武器を扱い、馬上から攻撃したかを知りたくてツタヤで借りてきて、一気に4本見た。娯楽作品とはいえ、黒澤監督は、とにかくこだわるらしいので楽しみだった。昔見たはずだが覚えてはいないので新鮮に見れると思った。続きを見る     棟治20151121

  • 夢ものがたり・・・私には夢がある、人は「夢とは、かなえるもので、見たり語ったりするものではない」と言う。私のは「夢とは、遠きにありて思うもの、決してたどり着くことの無い遥か向こうにあり」なのだ。人生そのものと言えるかもしれない・・・続きを見る 棟治

  • 長野業正ってどんな人だろう?と想像するとき、まず思い浮かぶ画像がある。コンピュータゲームをやったことがある人なら、うなずけるはず。わりとお爺ちゃんになってからの活躍しか話しか伝わってないせいか、白髪交じりに描かれることが多い。12人の娘を西上野の諸将に嫁にやり結束を固め、平井城に管領上杉憲政亡き後も伝々の話。さらに、武田信玄の上野侵攻を数度にわたり退けるとあるが、近年では否定されてきている。では実際はどうだったの?てのを個人的に調べて整理し、棟治なりの考えをまとめてみようと言うのも本サイトの目的の一つである。 続きを見る

  • 上泉伊勢守時則・・・箕輪初心●高崎の城一覧「154城」復刻版より
  • 上泉伊勢守時則(秀綱)は、新陰流の開祖であり、あまりに有名なのでことさらに取り上げなかったが、ここへ来て新たに剣術だけでなく兵法(新陰流軍学)一般(軍師・戦奉行適な事)の大家であったことが今更のように分った。長野業正の強さの秘密はここにあり!厩橋時代から、秀綱の父より軍学を学び秀綱とともに実践の中で完成させて行き、高名な剣豪集団を率いた最強の坂東武者軍団であった?そうだそうに違いない!と思い込む棟治であった・・・
  • 上泉伊勢守時則・・→武田家臣:下芝砦
  • 本居勢田郡上泉村 上泉城 ・・・前橋市上泉
  • 下芝砦住定居・・・下芝カインズホーム北西300m? 続きを見る

  • 武田氏の西上野侵攻 箕輪初心:生方▲箕輪城172峰岸純夫説を加味した『武田信玄の西上州侵攻&箕輪城落城』 より
 箕輪城落城までに、武田氏の西上野侵攻が6~9回あったという。これらについて上野戦国を研究された諸先輩方の情報をもとに、定説及びそうなっていないものについても、その可能性について検討し、まとめて行こうと思います。また、武田氏の侵攻とは信玄公の総大将として出馬の有無にかかわらず、その命を受けての出陣も含むこととします。さらにこれだけでも十分分量が予想されるので、メインメニューに追加した。概略が出来たので一旦記載。
※上州の黄斑と謳われた長野信濃守業正と子の右京進氏業(業盛)の活躍を追う
続きを見る      20151010(リンク切れ修正) 棟治

本居勢田郡小沢村・・・前橋市旧富士見村
和田山砦住・・・・箕郷町和田山松本隆さん宅
富士見村を捜し求めたが見つからず、意外な集落発見と宮城に見つけた小沢氏・・・つづきを見る

  • 青柳金王丸忠家・・・・戦死。 箕輪初心●群馬「高崎の旧榛名町の全城=29城」より
本居勢田郡青柳村・・・★前橋市青柳大師(青柳山談義堂院龍蔵寺)
三ツ子砦住・・★高崎市旧榛名町三つ子沢 高崎市三ツ子沢町。
諏訪神社の境内になっているところが三ツ子沢砦の址という。
※もしかして関係あり?⇒金剛夜叉明王の上下の文字を戴き「金王丸」と命名したと言う。
◆藤原秀郷流
※勢多郡青柳村を本拠としていた『青柳氏』は藤原秀郷流であると管理者は結論付けている。がしかし、なにか新しい情報があれば検討し修正しようと思っている。続きを見る   20150929 棟治

戦国史を語るにあたり、『戦国大名』(黒田基樹氏著)を基に色々調べてまとめてみた。まだまだ足りないところばかりであるが、一旦ここまでのところを掲載しておくことにする。
 戦国大名(せんごくだいみょう)は、日本の戦国時代に数郡から数カ国規模の領域を一元的に支配した大名を指す。戦国大名は、室町将軍など中央権力と一線を画し、守護公権のあるなしに関わらず(自己の力量により)①国内を独自に統一する権力を有する(地域国家)。また、②有力国衆など被官・家臣の統制を強化し家中家臣団)を構成し、領国内において③軍役を課すシステム(例えば貫高制)を確立している。
続きを見る                                                                           20150924 棟治

1524年 大永4年 箕輪・厩橋長野氏は、総社長尾顕方を挟撃する。
この反乱はどうもなかった事にするのが、最近の定説のようだ、大永7年の乱と混同している模様
・・・これを深く恨んだ顕方は大永4年(1524年)に相模の北条氏綱に内応して謀叛を図るが、憲房の後を継いだ上杉憲寛の命を受けた従兄で庶流の高津長尾氏の長尾顕景に攻められて当主の座も失った。続きを見る
                              20150914 棟治

里見義堯(さとみ よしたか)について調べると、妻=正室:長野憲業の娘(長野業正の妹)継室:土岐為頼の娘 とある。しかしその子については、里見義堯の次男・文悟丸(里見義樹(よしつき?)が誕生した旨の記述は見つけられない。非情に悲しいが、とにかく安房里見氏の歴史について調べた事をまとめてみることにした。続きを見る                          20150914  棟治

大体の流れであるがこれを基にして検討修正し、箕輪城落城までを追って行こうと思う。現在のなぞは小幡・木部氏が『関東幕注文』にないことと、木部氏の武田氏への従属、剣聖上泉伊勢守の箕輪落城時の動向などである。続きを見る                       20150914 棟治

下田大膳太夫正勝・・・戦死。
下田屋敷(内出)・・・箕郷支所&中央公民館
石井城のところで掲載した下田氏は、上杉家家臣時代に上杉家所領であった富士見地区に知行をあてがわれていたのか、長野家家臣時代に富士見へ進出したのか、どちらが先なのだろうか。『下田氏_上州路1999年3月号』を見る限りでは、上杉憲政の平井城退去後に長野氏に従ったとあるので、地区への下田氏の広がりを見るにおいて、前者の上杉氏時代より知行があったと棟治は考えている。続きを見る
知行があったのかも含めて、このことは今後の要検討事項である。 20150911 棟治

  • 木暮丹後守直政・・・・戦死。箕輪初心●高崎の城一覧「154城」復刻版より
 本居勢田郡木暮村・・・前橋市旧富士見村
引間砦住・・・旧群馬町「喜の蔵」の東隣
富士見村小暮には手がかりが見つからず、珊瑚寺・岡城・漆窪城方面の石井へと足を伸ばしてみた。
・・・私自身に見る目がなく、この墓石群によりおおよそでもあっても、木暮氏の居住し始めた年代が分らないのが残念である。碑文にある教訓
「箸とらば 親や先祖の思を知れ 我が一力で食ふと思ふな」   太一
ありがたいお言葉である。・・・続きを見る           20150907 棟治 (同11日改編)

  • 北爪周防守政勝(=土佐守政勝)箕輪初心●高崎の城一覧「154城」復刻版より
新井砦住・・・・旧榛名町新井=三つ子沢 (場所不明?)
北爪砦は現高崎市浜川町のローソンの北隣にある。
前橋市三夜沢町の赤城神社あたりまで、長野氏の最盛期は勢力圏だったと言われている。またすぐ南が 鼻毛石であるので、北爪周防守はこの辺りを本貫とする知行地方持衆として仕えていたと考えられる。続きを見る
                               20150905 棟治

 まだ書き足らないのですが、ひとまず第一弾として。
・・・長野業政の養子:里見義樹が成立した。
③里見義光(義堯?)の娘と結婚=妾とし、3男:長野氏業=業盛を産んだ。・・・
もしこの事が事実なら業正亡き後、箕輪城(氏業=業盛)と鷹留城(信房)ではおおきなドラマが展開されていた事になり、この胸の奥から湧き出る熱き思いはとどまるところを知らない。続きを見る
                               20150904 棟治

 素人仕事なもので、御見苦しい点もございますが一所懸命にやったんです。上野先方衆では小幡氏の赤備えが有名だが、上の写真を見ると明らかに鞍は朱色。木部氏ももしかしたら赤い鎧でそろえていたかもしれない。続きをみる 
                               20150902 棟治

  • 本日念願であった「初心禅師様」とのお目見えが叶ったのでここに記念として記しておくこととする。
 『城・陶芸・ハイキング・ダイビング・スキー・旅行』のサイト管理者である箕輪初心様にお会いいたしまして、当該サイト内の掲載事項に関して「上野の戦国史」内への転載を御快諾いただきましたことを、ここに報告させていただきます。左メニュー下部へサイトリンクを張らせていただきましたので、興味のある方は行ってみると、きっと御満足いただけるかと思います。

     初心様本当にありがとうございました         20150831 棟治

  • 利根川の西遷についてまとめてみた。関東の華と唄われた前橋城と深く関係する利根のながれ・・・

※以下に山崎一氏の名文を掲げます

 前橋城(厩橋城)は天下の名城である。名城とは、戦略点に築かれ、構造の優越と目覚ましい歴史とを誇る城でなければならない。たとえ千丈の石塁を積み百棟の門を連ねても、戦術的価値に乏しく、一片の史話も語られていないものは決して名城とは言い難い。「群馬県古城塁址の研究(山崎一氏著)」より  
  

◆一言コメントについて管理者より


  • 最終更新:2016-01-25 15:09:58

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