天正・慶長

上野の戦国年表 天正・慶長年間

主に「武田信玄・勝頼と家臣たち」様と箕輪初心氏のサイトをまとめたページです

天正元年

  • 1月 信玄、この頃すでに発病。
  • 1月 村上義清、没する。
  • 2月15日 野田城の菅沼定盈を降す。
  • 2月長篠城にて回復を待つが、撤退。
  • 4月 信長、義昭を二条城に囲む。
  • 4月12日信玄、伊奈駒場で病没し、勝頼が嗣ぐ。
  • 4月23日 勝頼、内藤昌秀に血判起請文を与る。
  • 7月義昭、挙兵するが信長に和を請う(室町幕府滅亡)
  • 8月信長、朝倉義景の越前一乗谷に迫り、義景自害する
  • 8月 勝頼は武田信豊・土屋昌続らを三河に侵攻させる
  • 9月3日 家康、三河長篠城を攻略。
  • 山9月県昌景・穴山信君・武田信廉らを北遠江へ侵攻させる
  • 9月遠江国森で信廉軍が徳川軍の伏兵に遭って、敗退する。
  • 10月勝頼、大軍を率いて遠江に侵入し、浜松城を窺う。
  • 10月その後駿河に引き返し、諏訪原城を普請する
  • この年、信虎が信玄の死を聞き、信濃高遠まで帰る。
 

天正2年

  • 1月27日東美濃岩村口に出陣し十八の小城を攻略。
  • 1月ついで、明智城も落とす。
  • 1.9 謙信、西上野の経略を思いたち、信長・家康に甲斐・信濃へ出兵するよう要請する。
  • 3月 武田家臣 天野景貫、犬居谷で家康を破る。
  • 3月5日 信虎、高遠で病没(八十一歳)。
  • 4月 本願寺顕如、挙兵して信長を攻撃する。
  • 5月19日 真田一徳斎(幸綱)病死する。
  • 6月17日 高天神城を落とす。
  • 6月29日信長、謙信に信濃・甲斐を一緒に攻めようと謀る
 

天正3年

  • 3月6日高野山成慶院に信玄の位牌を建てる
  • 4月21日 三河長篠城を攻める。
  • 5月信長・家康が、長篠設楽原に南北二キロの陣城を築
  • 5.21 長篠設楽原に、大量の鉄砲を装備した織田・徳川軍に大敗し、山県昌景・原昌胤・内藤昌秀・馬場信春・土屋昌続・甘利信康・真田信綱・昌輝・望月義勝・川窪信実・和田業繁・安中景繁・五味高重・香坂昌澄・三枝守友・名和宗安・横田綱松・祢津是広らの武将が討死する(武田軍の死傷者一万人余)。
  • 長篠合戦では、武田信永、望月信雅、望月重氏兄弟も出陣している。 望月将監、小平左京亮、常田次郎、篠沢伊賀守らも望月隊につづいて進軍しているが織田軍と徳川軍の鉄砲隊によって過半が討ちとられてしまっている。 武田信永も鉄砲に撃ち抜かれ落馬し討死。24歳だったという。
  • 6月討死した山県に代わって、江尻城代に穴山信君を据える
  • 6月家康、諏訪原・光明寺城を落とす。
  • 8月 家康に包囲された遠江小山城の救援で遠江に侵攻する
  • 11月21日五ヶ月間の籠城後に美濃岩村城が織田家に降伏
  • 12月 家康、二俣城を攻略する
  • 1576年6月、長篠の戦いの時。武田側の部将として鳶巣砦を守備していた和田城主和田業繁の部隊は、徳川家康の家臣酒井忠次の奇襲を受けた。この戦いで重傷を負った和田業繁は福島嘉兵衛、真下下野、栗原内記、松本九郎兵衛、秋山縫殿亮、大澤定吉、長島因幡の7人に守られて戦場を離脱したが、和田業繁はこの時の傷がもとで信州駒場で死亡した。業繁は戦死したものの、後にこの7人は矢中七騎と呼ばれ、武勇を賞賛されることになる。栗原内記、松本九郎兵衛、大澤定吉の屋敷の所在地はわかっているが他は不明だという。下の写真はわずかに痕跡をとどめる大澤定吉の屋敷跡である。場所はセキチュー矢中店の南西250mのところにある。大澤定吉屋敷の西230mにある宝昌寺は、倉賀野城主金井秀景の弟、矢中新左衛門の屋敷跡で、ここのさらに西側(写真でいえば左側)に栗原内記の屋敷があったという。7人は和田氏の直接の家臣ではなく在地の豪族として和田氏に与力し、また和田氏からは庇護されていた。「ティータイムは歴史話で」さまより

天正4年

  • 3月遠江侵攻し、高天神城への補給し、相良城を築く。
  • 4月16日恵林寺において、父 信玄の葬儀を行う。
  • 4月顕如、足利義昭に通じ石山城に籠もり、信長に抵抗する


天正5年

  • 1月22日春日虎綱の献策で北条氏政の妹と結婚する。
  • 閏7月 家康、高天神城を攻撃する。
  • 8月 遠江に出陣し、横須賀で家康と対陣。
  • 10月 大井川で、家康と対陣する。
  • 10月松永久秀、織田信忠に攻められ大和信貴山城で自害

天正6年

  • 3月3日 家康、駿河田中城を攻撃する。
  • 3月13日謙信が急死し、養子の景虎と景勝が争う。
  • 4下旬 上杉景虎を支援するため、越後に出兵する。
  • 5月11日春日虎綱が病死。武田軍は春日山城に迫る。
  • 6月上杉景勝との講和成立し 於菊が景勝へ嫁ぐ事が決まる
  • 7月7日家康が高天神城攻撃の拠点 横須賀城の普請を開始
  • 8月29日上杉景勝・景虎の和睦を試みるが失敗し帰還する
  • 8月 家康、小山城を包囲し、ついで田中城を攻撃する。
  • 10月駿河田中城に入り、翌月には高天神に入城する。
  • 11月3日横須賀城に接近するが決戦及ばず駿河に兵を退く

天正7年

  • 3 上杉景勝、越後御館の上杉景虎を攻め、自害させる。(このことにより、北条氏との関係が悪化する。)
  • 4月 駿河から遠江高天神城に入る。
  • 7月勝頼、厩橋城に入り、信豊に広木城を攻めさせる。
  • 9.5 氏政、勝頼と国交断絶をし、家康と同盟を結ぶ。この月、家康は氏政の要請をうけて駿河に侵攻し、持舟城を攻略。さらに駿河由比まで進み、放火する
  • 9月13日 駿河黄瀬川で氏政と対陣する。
  • 9.25 家康と決戦をすべく北条軍との対陣を切り上げ、全軍を駿府に向けるが、家康はこれを避けて遠江へ引き上げる。
  • 10月 於菊が上杉景勝のもとへ輿入れする。
  • 10月 家康、高天神城を攻める。
  • 11月 11 遠江に侵攻し、高天神城へ入る。この月、伊豆の北条軍の拠点を攻撃する。この年、太郎が元服し、信勝と名乗る。

天正8年

  • 3月家康、氏政を支援するため、遠江・駿河に侵攻する
  • 3月16日家康、高天神城攻撃で、付城の普請を開始する。
  • 3月伊豆に侵攻し、武田水軍と北条水軍が伊豆沖で海戦
  • 4月 石山本願寺の顕如、信長に降伏する。
  • 6月真田昌幸、沼田城、上野の北条方の諸城を次々に攻略
  • 6月 家康、駿河に侵攻する。
  • 8月駿河・伊豆で氏政と対戦、仁科盛信が高遠城に入る。
  • 9月 家康、駿河持舟城を攻撃する。
  • 10月 家康、高天神城を包囲する。
  • 10 高天神城の岡部長教らが勝頼に援軍を要請するが、家臣らの反対をうけて救援することができず。
 

天正9年

  • 1月 韮崎に新府城の普請を計画する。
  • 3.22 家康の猛攻により、高天神城が落ちる。(勝頼は天下の面目を失う。)
  • 8月 信長、高野聖千余人を断罪に処す。
  • 10月氏政の家臣で戸倉城主の笠原範貞が勝頼に内通。
  • 10月笠原氏支援で伊豆・駿河に出兵し氏政と対戦する
  • 11 信長の子で人質であった御坊丸(織田勝長)を、信長のもとに送り返し和睦をはかるが、一蹴される。
  • 12月24日 未完成の新府城に躑躅ヶ崎館から移る。
  • 12 信長は、翌年春に武田討伐を計画し、三河東条城へ大量の兵糧を搬入させる。
 

天正10年

  • 1.27 木曽義昌謀叛の知らせが入る。翌日、武田信豊を大将とした三千騎・仁科盛信らの二千騎が木曽に進撃する。
  • 2月2日勝頼、二万の兵を率いて諏方上原城に出陣
  • 2.3 信長、武田氏への総攻撃を指令する。信濃伊奈・木曽から信忠、駿河から家康、相模から氏政、飛騨から金森長近が侵攻する。
  • 2月6日下条信氏、滝ヶ沢口を支えきれず逃亡
  • 2月14日松尾城主 小笠原信嶺が信忠に内通する
  • 2月14日夜、飯田城主 保科正直は高遠城へ退却
  • 2月16日2.16 木曽討伐のため出陣した今福昌和らが、鳥居峠で織田・木曽軍に敗れる。
  • 2.16 家康、遠江小山城を開城させる。
  • 2月17日2.17 武田信綱・大嶋城代 日向玄徳斎らは城を支えきれず、夜中に逃亡。安中左近は高嶋城へ退却。
  • 2月20日 上杉景勝に援軍要請をする。
  • 2.20 家康、駿河田中城を囲み、依田信蕃を降し、翌日には駿府を占領する。
  • 2月25日穴山梅雪斎が家康に内通し、二日後判明
  • 2.27 家康、持舟城を開城させる。
  • 2.28 北条軍が伊豆・駿河に侵攻し、沼津・戸倉城などを攻略する。
  • 2月28日上原城から撤退して新府城に帰還するが、逃亡するものが相次ぎ、千騎に満たず。
  • 3月2日高遠城が落城し、仁科盛信等が全滅
  • 3.2 伊奈高遠城が信忠に攻められ落城し、弟の仁科盛信・小山田昌行・今福昌和・原貞胤らが全滅する。この日新府城で、最後の軍議を開く。
  • 3.3 信忠、諏方社を焼く。
  • 3月3日新府城に火をかけ郡内岩殿城をめざし逃亡
  • 3月3日、深志城が自落する。
  • 3月4日 岩殿城主 小山田信茂の迎えを待つ。
  • 3.5 信長、安土城を出発。翌日、岐阜において盛信の首実検をする。
  • 3.6 信忠が古府中を占領する。
  • 3月7日武田竜宝・武田信綱・武田信堯・一条信就・山県昌満・朝比奈信直・諏方頼豊ら殺害される
  • 3月9日信茂が謀叛にて勝頼一行に鉄炮を打ちかる
  • 3月9日信茂が謀叛を起こして人質であった老母らを奪い、勝頼一行に鉄炮を打ちかけたので、勝頼は先祖の武田信満が上杉禅秀の乱で自害した天目山を死地と定める。
  • 3.10 家康・梅雪斎は信忠と古府中で合流する
  • 3月10日田野に入り、高台に柵を構えて最期の決戦に備える。この日、一条信竜が討死する。
  • 3月11日勝頼・信勝・跡部勝資・土屋昌恒・安部宗貞・小宮山友晴らは、織田軍の滝川一益と戦い、午前十時頃ことごとく討ち取られる(甲斐武田氏の滅亡)。
  • 3月11日 武田氏滅亡。信忠、勝頼父子らの首実検をする。
  • 3.14 信長、浪合において勝頼父子らの首実検をする。
  • 3.15 小山田信茂父子ら斬首される。
  • 3.16 飯田逗留の信長のもとに、信豊の首・勝頼の乗馬「大鹿毛」と最後に差していた刀・盛信の蘆毛馬が届く。
  • 3.16 信濃小諸城において、武田信豊が自害する。この前日から三日間、勝頼父子・盛信の首は信濃飯田で晒され、その後、信豊の首と共に京六条河原に獄門首として何日も放置される。妙心寺住持 南化玄興が、信長に嘆願して三人(盛信を除く)の首級をもらい受け、同寺において葬儀をし、手あつく葬る。葬儀の際に甲斐法泉寺の快岳宗悦が勝頼の歯・髪をもらい受けて帰り、同寺の境内に埋葬する。-3月23日 織田家臣:滝川一益の領土となった。甲斐は信長の家臣:河尻秀隆・木曽曽は木曽昌・・・そのまま。北信濃は森長可・信濃小県&佐久と上野国の西部は滝川一益に与えられた。
  • 3.29 信長、上諏方において論功行賞を行う。
  • 4.3 信忠、恵林寺を焼き討ちし、快川紹喜ら焼死する。この月、高野山引導院(現 持明院)でも勝頼らの葬儀が行われる。その後、勝頼の遺命をうけていた甲斐慈眼寺の尊長が、高野山に掛真と遺品を納める。
  • 4.10 信長、古府中を出発し、富士山を見物して安土に帰還する。
  • 5.15 家康・梅雪斎、安土へ行き惟任(明智)光秀の饗応をうけ、その後奈良・堺を見物する。
6.2 信長、京本能寺において家臣の惟任光秀に攻られ、討死する。信忠は二条城で自害。この日、穴山梅雪斎が山城宇治田原において一揆に襲われ、殺害される。
  • 6月2日 本能寺の変。織田信長が横死。甲斐の河尻秀隆が武田遺臣:土豪一揆に殺害され、甲斐が無主の国となった。
  • 6.15 甲斐の新領主 河尻秀隆が一揆によって討ち取られる。
  • 6月 天正壬午の乱(神奈川の合戦あたり)・・・北条氏直は父:北条氏政の命で叔父の鉢形城主北条氏邦らと共に4万3千の大軍をもって上野侵攻を開始した。
  • 6月??日 「伴野左衛門方始て出仕」(★『高白斎記』)伴野左衛門は貞祥の嫡男:信守の弟にあたる?
  • 森長可も信濃:海津城から撤退した。箕輪初心氏サイトより
  • 7月 天正壬午の乱(北条氏の北信濃侵攻)・・・7月上旬 北条氏直が佐久・小県を支配した。9日 真田昌幸は北条氏直に臣従する手紙をだした。
  • 8月 天正壬午の乱(北条氏VS徳川氏)・・・天正壬午の乱、北条氏直は若神子城(北杜市須玉町若神子)に本陣を置いた。北条氏直は「甲斐は祖父(武田信玄)の旧領国」なので領有を望んだ。徳川家康は新府城を本陣に七里岩台上に布陣した。

  • 8.21 武田氏の遺臣八九五人が、家康に臣従を誓う。
  • 11月 天正壬午の乱(北条軍が徳川軍に敗北その後)・・・戦功により依田信蕃は北条方の大道寺政繁が撤退した後の小諸城も任された。佐久郡・小県郡周辺の勢力が続々と依田信蕃の下に集ってきた。

天正11年

  • 天正11年(1583) 真田昌幸は徳川家康に応援させ、上田城を築城開始した。戸石城から本拠を上田に移した。戸石城は上田城の背後の詰め城となった。
  • 2月21日 依田信蕃は岩尾城攻めにかかった。
  • 1日目、依田信番は力攻めを強行した。岩尾大井氏の軍勢は寄せ集めの烏合の衆であったが、木の柵を隙間なく並べ、依田軍に鉄砲・矢の集中攻撃を行った。依田軍は多くの犠牲者を出た。軍監の柴田康家は「力攻めをやめて家康流の気長な戦術をしたらいかがか?」と勧めた。 依田信蕃も攻めあぐんだ。
  • 2日目 再び強気に力攻めをした。岩尾城の大手門を破り、三の郭の前手前の郭に突入した。乱戦となった。大井軍は三の郭櫓の上から狙い撃ちした。依田勢はまたまた撃ち倒された。依田信番は次々と兵を繰り出した。
  • 3日目 頭にきた依田信蕃は陣頭に立って攻撃を仕かけた。大井方の淺沼平兵衛は鉄砲隊に依田信蕃を狙撃させた。弾丸は依田信蕃、弟:依田信幸に当たった。依田信蕃、依田信幸が戦死した。大将を失った依田勢は大混乱に陥った。依田信蕃の末弟:依田信春は兵を引き揚げた。大井行吉の父:大井行頼が戦死した。
  • 軍監:柴田康家は開城降伏の使者を送った。大井行吉は父が死んだこともあり、和睦した。大井行吉は柴田康家に城を明け渡した。大井行吉は上野国松枝(松井田)城主:大導寺政繁に会い、保渡田村(高崎市旧群馬町)に幽居した。
  • ★保渡田村には起請文にある武田遺臣:内藤昌月や塚越氏(My母先祖)や友松子孫・土屋一族の子孫などがいた。2年後、天正12年(1584) 保渡田村で死んだ。享年43。
  • ※出羽国由利郡の由利十二頭が大井氏の庶流を称している。
  • 天正11年(1583) 岩尾城攻め、依田信蕃が討ち死にした。長男:依田康国が父:信蕃の菩提を弔うために蕃松院を建立した。依田康国は徳川家康から松平姓を貰い、松平康国として、小諸城に入った。
  • ※天正11年(1583)8月15日、徳川家康の娘・督姫が北条氏直に嫁いだ。北条氏が相模へ引上げた。
  • ◆説3「相木昌朝子孫:宗家:依田武勝氏の本」&北相木教育委員会、伴野貞長は上野国から小田原北条家に食客となった。相木市兵衛頼房は倉賀野城の食客になった。
  • 天正11年(1583) 2月12日芦田(依田)信蕃は田口城を夜中に攻撃した。相木依田頼房は相木城(見立城)にいたが、早馬の知らせを受けて駆けつけた。30kmもあり、既に田口城は落ちていた。北相木の坂上城も落とされた。 
  • 岩尾大井行吉は春日弾正の元で海津城を守っていたが、北条氏政:家臣の松井田城主:大導寺政繁に属した。岩尾大井行吉は反旗を翻した。大手台郭・・大井行進・浅沼平兵衛・常陸平六左衛門・3の丸・・・阿久津藤十郎・東条新助・神津郷左衛門2の丸・・・依田丹波守・柏山刑部左衛門・岡村式部・西の丸・・・根々井入道・清水?・青木?を配置した。

  • 11月 望月昌頼自刃後には、望月信雅が領主として復帰し、徳川家康に従って佐久郡を領した依田信蕃に臣従している。 この時期には真田昌幸とは対立する立場に度々あったが、その支流には真田氏に仕えたものも多い。 明暦3年(1657年)の信濃松代藩分限帳にも「800石祢津喜平治」や「650石海野源左衛門」など、祢津姓、海野姓、望月姓の藩士が見え、 真田昌幸や真田信幸(真田信之)ら真田家の歴代当主が祢津・望月の各氏を順次、家臣団に加えていったものと思われる。 松代藩主の重臣家臣にもこれらの姓が多いことが分かる。
 
 

天正13年

  • 第一次神川合戦・・・徳川家康と北条氏直の和睦条件であった沼田領を真田昌幸が引き渡さなかった。徳川家康の大軍が上田城を攻撃した。真田信幸が戸石城を守備した。真田信幸は上田城下に徳川軍をおびき出し、さらに、引き返す徳川軍を横から追撃するのに役だった。この合戦では上田城の城兵と伏兵・百姓軍・真田信幸軍の巧みな攻撃により、一説には徳川軍は1300余が討ち死にしたといわれる。
  • 豊臣秀吉の関白就任、四国平定

天正14年

  • 天正14年(1584)小田井の石高は330貫あった。

天正17年

  • 天正17年(1589) 相木房頼&伴野貞長は田口城近くに戻った。田口城で兵を1000人で反旗を翻した。しかし、松平康国に攻められ、落城した。伴野貞長は戦死した。保渡田近くに残った伴野貞長の子孫は高崎市のある村に居所をもとめた。・・・・
  • 3.27 勝頼の遺命をうけていた野村兵部助が、高野山に墓を建立する。

天正18年

  • 徳川家康の関東移封に伴い井伊直政箕輪12万石拝領
  • 3月17日 依田(松平)康国 VS 相木頼房&伴野貞長。結果・・・相木軍敗退伴野貞長だ戦死。※伴野貞長の墓・・・北相木村の山中
  • ①伴野信守の長男:伴野貞長説
  • ②伴野信守の次男:伴野貞長説
  • ③伴野信是の嫡男:伴野貞長説。 
  • ★伴野Hしゃんちは伴野貞長が用心のため、上野国に残してきた子孫だった可能性があるのではないだろうか?
  • 天正18年(1590) 徳川家康の関東入国。伴野貞吉は上野国に地を賜った。慶長5年(1600) 徳川家康の上杉景勝の討伐征軍に加わった。関ヶ原の合戦にも参陣した。徳川家康の命によって依田(松平)康国の上田城を守備した。子孫は数家に分かれて、徳川家旗本として続いた。

  • 天正18年(1590) 豊臣秀吉の小田原攻撃。小諸城主:依田(松平)康国は徳川家臣であるが、前田利家の先導役となった。①佐久白岩城→(★ウィキペディア)
  • 3月12日?北相木の白岩砦で依田能登守(頼房)と伴野貞長は蜂起した。
  • 3月14日、依田康国は小諸城を出発した。
  • 3月15日 依田康国は勝間城(稲荷山城)に陣取った。家臣:伴野小隼人・平尾平三・依田長右衛門等が相木頼房・伴野貞長の隊を槍をついた。相木勢は廃止して、380余名の戦死者を出した。伴野貞長は戦死した。相木能登守は上州に逃れた。(★平根村誌)
  • 4月5日 平尾平三は高野山蓮華定院に1貫文の地を寄進した
  • 大道寺政繁の松井田城→多米元忠の西牧城などの攻略に参加した。寺尾左馬助(石倉治部)の上野国石倉城を攻略中、戦死。寺尾左馬助から依田康国への降伏の申し入れにより、一旦は開城。となったが、疑心暗鬼に陥った寺尾左馬助が依田康国を殺害、弟:依田康勝が左馬助を討ち取った、という話もある。
  • 依田(松平)康勝は藤岡の芦田城(藤岡城)に移った。平尾平三も移った。平尾平三は庚申山に出城を築いた。子ども:平尾快英は上州に残った。
  • 慶長5年(1600)芦田城廃止。平尾平三は徳川家忠に付き、本多佐渡守に属した。平尾平三は死んだ。享年61。

慶長3年

  • 井伊氏、高崎へ城を移し箕輪城は廃城。太閤秀吉死没

慶長5年

  • 慶長5年(1600) 関ヶ原の戦い&第2次上田合戦、真田昌幸・幸繁(幸村)父子は西軍についた。真田信幸は東軍についた。
  • 9月2日 徳川秀忠率いる徳川本隊38000は小諸城に着陣した。上田城の真田昌幸に降伏を勧告した。真田昌幸は降伏勧告受け入れと見せかけて籠城の準備をした。真田幸繁(幸村)は戸石城に入った。
  • 9月5日 徳川秀忠は真田信幸に戸石城攻撃を指示した。真田昌幸は真田幸繁に「兄に花を持たせ、負けたふりをせい。そうすれば、信幸が徳川方の功になろう。」と言ってあった。

 真田信幸 VS 真田幸繁(幸村)

  • 兄弟の対決はやったふりの対決になり・・・結果的に兄弟対決を避けて、弟:真田幸繁は無血開城し、戸石城は真田信幸に占拠する形をとった。
  • 9月6日 上田城攻撃は本格的に始まった。伊勢崎城の伏兵が背後を襲わせた。真田昌幸&幸繁(幸村)が上田城から討って出て、巧みな攻撃で徳川軍を挟み撃ちにした。徳川軍は甚大な損害を受けた。
  • 9月7日 徳川秀忠は上田城攻撃を諦めて、関ヶ原に向かった。 中山道、木曽路を西に向った。
  • 9月15日 関ヶ原の戦徳川秀忠は間に合わなかった。パパから大目玉をくらった。
 
  • 真田昌幸の真田の里・上田の旧領は真田信幸(信之に改名)に与えられ、戸石城も支城として存続していた。しかし、荒廃した上田の復興&逃散した百姓の呼び戻しには大変な努力が必要だった。
  • ★真田信幸は百姓に年貢免除し、&城工事の賦役を課さなかった。(真田三代:中山優著)
  • 元和8年(1622) 真田信之の松代城転封となった。戸石城は廃城となった。

 

  • 最終更新:2016-03-10 00:53:33

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