上野長野氏

◆上野長野氏について

出自 (Wiki最終更新 2014年10月29日より本サイト内に取り込んだもの
  • 本姓は在原氏。『伊勢物語』の主人公であるとされる在原業平が、関東に下向したことが始まりであると伝わるが、もとより伝説の域を出ない。ただ物部氏系の石上姓を名乗っていたとも伝わることから、当初は石上姓だったとみられる。また在庁官人の出身とも指摘される。続きを見る

  • 厩橋長野氏・・・厩橋宮内大夫の一族は厩橋城(のち前橋城と改称)を築き、総社の長尾氏と対抗した。この厩橋城主となった長野氏は、『前橋風土記』に歴代城主として初代・固山宗賢(長野左衛門尉)、2代長野道安、3代道賢、4代長野賢忠と記載される。続きを見る
◆厩橋衆・・・関東幕注文より
  • 長野藤九郎(長野道賢?)・・・業正が逝去する時代に業正兄、または伯父賢忠の父道賢はさすがに変、ここは賢忠が正しそう。さらに言うと賢忠が業正の伯父とかもかなり変、いったいいくつまで生きたの?ってことになりそうなので、業正=方業で業正の兄賢忠である説がなんか納得行きそう。
  • 同彦七良(長野彦九郎)
  • 大胡
  • 引田伊勢守(疋田盛利)
  • 厩橋長野氏について(前橋市広報編)より

箕輪長野氏    
◆箕輪衆・・・関東幕注文より
  • 長野(長野業正
  • 新五郎(長野氏業=業盛)
  • 南与太郎
  • 小熊源六郎
  • 長野左衛門
  • 浜川左衛門尉
  • 羽田藤太郎
  • 八木原与十郎
  • 須賀谷筑後守
  • 長塩左衛門四郎
  • 大戸中務少輔(浦野重成)
  • 下田
  • 漆原
  • 内山
  • 高田小次郎
  • 和田八郎
  • 倉賀野左衛門五郎(倉賀野尚行)
  • 依田新八郎
  • 羽尾修理亮
  • ※鷹留長野氏はどこに位置するのだろう?また木部氏小幡(図書之介)氏・安中氏(安中・松井田)はどうしたのだろう?一説によると関東幕注文は岩下氏のところで欠け落ちページがあるとか。

鷹留長野氏    
  • 業尚や憲業のころ長野氏は鷹留城にあり、のち箕輪城に移ったともいわれる。その鷹留城は業尚の築城と伝え、箕輪城時代はその支城として機能した。憲業のあと鷹留城には業正の兄の三河守業氏が入った。この子孫を鷹留長野氏という。続きを見る
  • 長野三河守業氏・・・長男:業通 次男:大森の別当 三男:忠業・・・・(信州に在住後、○○城で死亡)・・・・忠業子→正業(下仁田の長野氏)
  • 長野業通・・・長男:業広(春日山高田在)次男:彦根の長純寺の僧・・・・・・(井伊家の中老・家老長野?)三男:上州岡本(たぶん富岡市神農原)の西法寺住職。箕輪初心●箕輪城シリーズ55「長野一族の歴史」より

箕輪長野家家臣団

  • 箕輪長野家家臣団・・・箕輪初心★箕輪城134長野業政の直属家臣【長野信濃守在原業政家臣録=着到帳】より引用。★長野氏の可動兵力推定の資料に先ず、【上野国群馬郡箕輪城主長野信濃守在原業政家臣録】があげられる。この文書は永禄 元戌午年(1560)正月廿九日改として先ず一般の家臣393人が、名と役とが記され、次に重臣17人が述べられている。○与力、郷代官、野武士、歩弓武者、足軽は記さず。 実際には592人+家老5人+高家12人=607人である。(★箕輪町誌P984~992・「箕輪城と長野氏」近藤義雄著)・・・戦力は1500人と言われている。 続きを見る

箕輪城の支城砦一覧

  • 箕輪城の支城砦一覧
  • ★箕輪初心:箕輪城の家臣団の城砦=箕輪城の直接支配下の城・砦より
  • ●山崎一先生&近藤義雄先生の調べでは、約60である。
  • ●箕輪初心=私の調べでは、今のところ82である。
  • ※全て見学しているが、写真はメジャーな城砦を掲載したい。
  • ※秋本先生・井田先生・田口先生などの発掘で、長野氏時代の本丸?は三角形であることが分かった。(秋本先生の2009年の説明会より)
  • * 棟治は「箕輪城の支城砦一覧」を長野氏最大支配領域を誇った、永禄元年前後のものととらえている 

  • 最終更新:2016-03-08 21:37:01

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